職人のお弁当
今回は雑記を。
私は昔から大工さんに強い憧れを持っていた。
テレビでも鉄腕DASHで以前放送していたDASH村や、現在放送しているDASH島など、「建物をゼロから建設しますよ」、と言われるとつい見てしまう。後はマニアックな情報を仕入れたいときはタモリ倶楽部か。
釘を使わずに木材を継ぐ際の複雑かつ繊細な接合部を作る技術、そして重い木材を軽々と運ぶその姿。実に惚れ惚れする。古い建物自体も好きなのだが、それを作る職人さんは強い尊敬の念を抱かずにはいられない。
まぁ、実のところは大工だけでなく左官や造園など、職人全般に対して憧れがあるわけなのだが、職人好きな理由として、大きなものを一つあげるとすれば、そのお弁当だ。
私の実家には、さほど大きなものではないが庭があり、松や楓、椿などが植えられている。当然、手入れが必要なわけだが、我が家では植木職人さんに来てもらって、枝の伐採など諸々のメンテナンスをしてもらっていた。
作業は数日掛かる。
家の周りは田舎故、食べ物屋さんは当然なく、職人さんはお弁当を持ってきていた。
黒い艶のある皮に覆われた、肩掛け紐のついた大きな大きな円筒状の弁当箱。
田舎なので、家族と一緒に茶の間で食べる。そこに抵抗感はなく、当然遠慮なんていらない。もはや軽い親戚。
都会、ましてや現在では到底できないことだろう。
弁当箱をパカッと開けると、中からは暖かいご飯とみそ汁、おかずが入っていた。いわゆる保温ジャーというやつだ。
そして、大概フルーツ(みかん or さくらんぼ)が入っており、職人さんはよくそれを私や兄弟にくれていた。私達兄弟にとって、収穫以外の恵みの瞬間だ。
外見の無骨な雰囲気、内容量の大きさ、機能性。そしてそれを食す人間の気風。
子供の心を鷲掴みにするには、十分過ぎる条件だ。
それから大人になり、憧れの保温ジャーで会社にいきたい、と思い探しているのだが、どうも見つからない。
保温ジャー自体はある。むしろよく見かける。
だが、「表面を黒い皮で覆った」保温ジャーが見つからないのだ。
よく見かけるものは、表面がプラスチックのものが全てだ。
それでも暫くは、これでもよしと思い、プラスチック製のランチジャーを持って通勤していたが、やはりしっくりこない。無骨な雰囲気がないのだ。社会人になったヤンキーのように、角がすっかりとれて、円みが出てしまっていたのだ。
おいおい、何をそんなに丸くなってるんだ。昔はそんなじゃなかっただろう?女性にモテたいためにプラスチック化するなんて。材質は硬化したのに、性根は軟派になっちまったな。収まってんなよ!
もしランチジャーと口がきけるなら、これぐらいのことは言いたくなる。
これを読んでいる方で、私の望む、皮で覆われたランチジャーを見かけたという方がいらっしゃったら、是非教えて頂けないでしょうか。
死ぬまでには、それでお昼を食べてみたい。そう思う温かな冬の夜でした。
或る男
しなる穂に笑う新米泣く子舞い
秋の季語が兼題となり考えた句である。
新米を擬人化し、しなる程に笑いが止まらぬという様子と、見ている方ももうすぐ食べられる笑いをダブルミーニング的な意味あいで中七を作った。
下五は掛詞(と言えるものかどうかはわからない)となっており、当初は「泣く古米」としていたが、米米と続くと読んだときに鬱陶しいかと考え、影の意味で持たせようとしていた、泣いた子が舞うほど嬉しい様子の「泣く子舞い」に変えた。
こちらの句について、駄目な点をご指摘頂けたら幸いです。
私の実家は農家で、米と少量の野菜を作っている。
あとは果物を作っているが、ここでは多くは語るまい。
もちろん精米機も実家には備え付けられている。いつも精米したての米が食べられる、という米好きにはたまらない状況だ。精米した米の旨さを知ったのは、家を出て一人暮らしを初めてからになってしまったが。そして言うまでもなく、私は米好きである。
毎年九〜十月に稲刈りが行われる。では、それが終わればすぐに新米が食べられるかというと、そうもいかない。
去年の米、いわゆる古米(ふるこめ、とも言う)がまだ備蓄されているのだ。当然、先に収穫した古米から、消費していかなくてはならない。
下世話な話だが、彼女とは他の好きな人が出来たが、彼女がそれを許さない。彼女との関係が終わるまで、次の恋には進めない。
例える必要性が全くなかったが、例えるならそういうことだ。
なお、念のために断っておくが、私にはそのような行動を取る気持ちはないし、取れる勇気もない。
大凡、十二月になると、ようやく古米も底をつく。そしていよいよ新米の登場だ。
待ちに待った瞬間。炊きあがりの蒸気すら愛おしい。
古米を食べ続けると、新米に切り替えた初回の蒸気が異常に甘い香りに感じられる。
そう。シャンプーをメリットからアジエンスに変えた時のあの感覚だ。全てが劇的に変わる。
農家の息子というポジションは、飽きるほど米を食べられるというメリットがあるのだが、当然デメリットもある。
一つは手伝い。そして早起きである。
学生時代は休日寝ても寝ても寝たりないものだった。それでも、学校にいくのとほぼ変わらず、時にはそれよりも早い時間に叩き起こされ、手伝いをすることになる。
手伝いをする、ということは、休日の時間をプライベートな時間として使用することができない。友達との交流も平日限定となってしまうわけだ。
このような境遇の中、まだ青かった私は農家というものをものすごくネガティブなものとしてとらえ、農家の息子であることに一種のコンプレックスを抱いていた。
しかし、学生時代に一度だけ、そのコンプレックスが逆転した時がある。
かつて、日本全体が米不足に陥った際、巷には日本米がほぼなくなり、代わりに輸入米のタイ米が流通していた。友人が不満とインディカ米を口にする中、もちもちとした日本米を頬張っていたときは、なんとも言えない優越感と、農家である父の偉大さを感じた。
人生の中で数少ない、父に感謝した例の一つである。
あの瞬間、心で泣いていた私は、笑いながら舞っていた。
或る男
焼き秋刀魚辛いおろしに父想う
昔よく父が言っていた。「秋刀魚には、辛い大根おろしがよく合うんだ」と。
そんな頃を思い出し、詠んだ句である。
この句に関して、悪い点へのアドバイス等、コメントくだされば幸いです。もちろん、良い点(があればですが)のコメントも歓迎しております。
秋刀魚は、私にとって最も秋を感じさせる魚だ。
茸や鮭も好きだが、子供の頃から大好きな魚。そのコストパフォーマンスたるや、半端なものではない。佃煮もいいがやはり秋刀魚は焼き秋刀魚に限る。次点は鮭。
そういえば、魚を食べる時の中骨の取り方も教えてくれたのは父だった。
背骨に沿って箸を入れ、半身ずつ上下に開く。むき出しになった中骨を、頭と尻尾ごと取り出す。
父はそこに、これでもかというぐらい大根おろしを乗せていた。汁も切らず、秋刀魚が大根の湖の上に浮かび、おろしの雪が秋刀魚を覆い尽くす。
秋なのに、冬を予感させるような食べ方。
そしてあの決め台詞。
食べ終わると、秋刀魚の脂と醤油がとけ込んだ大根の汁を一滴残らず平らげる。
決して上品な食べ方ではないが、そこにある種の格好よさを感じていた。今では全く同じ食べ方で、私も秋刀魚の残り汁をすすっている。
この句を詠んだ頃は、秋の季語を兼題として出されたときだった。当時私は、実家から遠く離れた地で暮らし、ふと食べた秋刀魚を見て、このことを思い出した。
今は実家の近くに引っ越してきており、父との距離は物理的に縮まっているが、食卓に秋刀魚が並ぶ度、近くにいるのに望郷の想いがこみ上げる。
私の中で、秋刀魚はそこまでの食べ物となってしまった。
皆さんにも、こんな食べ物はあるだろうか。
或る男
玉いろの汗も滲みし残暑かな
言葉をつなぎ合わせただけの俳句。体裁だけを取り繕った俳句。面白みがない。というのが作者としての感想。
この句について、思う所があれば、コメントして頂けると幸いです。
さてこれは、私にとって初めて詠んだ俳句である。
正確には数十年ぶりの俳句と言った方がいいかもしれない。
確か、中学に一度授業で俳句を詠まされたことがある。当たり前のことだが、上五も下五も季節がいつだったのかも覚えていない。悲しいことに恩師の名前すら定かではない。脳裏に焼き付いているのは、テトラパックの牛乳とミルメークの旨さだけである。
時間をこの句を詠んだ時分に戻そう。
或る年の九月上旬。当時私は人生のどん底のような精神状態だった。家族だけがこの世と私をつなぎ止めていた。そう言っても過言ではない。
なんとか社会に戻るため、私は病院主催の復職支援プログラムに参加していた。いわゆるリワークプログラムというやつだ。その中のプログラムの一つに俳句を詠む会があった。同じくプログラムに参加していた仲間からの誘いを受け、参加した。
二時間構成となっており、前半はテキストベースでの勉強会だった。そして後半、「残暑」を席題とした句会が開かれた。提出までは二十分。
煙草を燻らせ、顔をしかめて捻りだしたのがこの句だ。とにかく五七五にしようと無理矢理はめ込んだので、情景も何もあったものではない。この時、頭に浮かんだのは、首筋にうっすらと浮かぶ玉のような汗だけだった。
句会も無事終わり、駅までの帰り道にてふと気付く。心が僅かながらも軽くなっていることに。 俳句を作るのに集中したことで、私の中の鬱々とした気持ちが昇華されたのか。と、一つの疑問が浮かんだ。
じわりじわりと、私の中から何かが滲みだした。
或る男
ご挨拶
私はときに面倒な生き物で、気付かぬうちに心が膨れ、ガス抜きが必要になるときがある。そうなる前に私がすること。それは俳句を詠むことである。
数年前、今となっては些細な事情で心身に疾患を患い、或る人に解毒の手段として俳句を教えて頂いた。
「心を言葉にして外に吐き出せ」と。
それが、私と俳句の出会いである。
それから、日々落ち行く心を奮起させるため、ときに心を鎮めるため、句を綴るようになった。来る日も来る日も句を詠んだ。目に入る光景を、心の揺れ動きを、昔の記憶を、五七五のパズルにあてはめ続けた。
そのうち、俳句に対する感情に変化が現れた。「愉しみ」を覚え始めたのだ。道具として使っていたはずの俳句が、いつの間にか、私の隣に腰を下ろしていた。
音もなく。
同時に、今まで何も感じずに生きてきたこの国に対しても、価値が変わった。日本語の美しさ。少ない文字に込められた多くの情景、感情。それに伴う、日本の原景、古き家、人々。全てが愛おしく感じられるようになった。いや、今までは、何も感じていなかったのではなく、何も見ていなかったのかもしれない。網膜で感じていたことを、脳が御節介にもフィルタリングしてくれていたのだろう。
「十七音の文章を組み立てる」たったこれだけの行動が、私という人間全てをかくも容易くひっくり返したのである。
もっと上手になりたい。この気持ちを他の方にも伝えられるような句を作りたい。今際の際まで考え続けたい。そう思うようになったのは昨年の暮れ。きっかけなんて何もない。いつかこうなるだろうと思っていた気持ちが、ぱっと日の目を見ただけだ。
俳句を学ぶことに生活の全てを費やしたいが、現実はそうもできない。ならばいっそ駄作覚悟で公の目に晒し、添削を受けられれば幸いと重い腰を上げたのが、このブログを立ち上げた所以である。
いつか来る老後を素晴らしきものとするために。最期の瞬間を笑顔で迎えるために。
私の拙い俳句をご指導頂けたら幸いである。
或る男